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今回の金融危機の概略を見ると今の世界の実態が見えてきます。事の発端はアメリカで開発された金融商品に欠陥があったという、ただそれだけのことです。そしてその波紋が日本に届き、現在日本のトヨタでさえも決算が赤字となっています。つまり驚く程世界はすでに繋がってしまっているという構造があるのですが、私たち個人がそれを日々実感しながら暮らしているかというとそうでもない。ただ「不況」と言う言葉だけが私たちに現在を知らせています。問題は世界全体が緊密に連動し、その影響は私たち個人を直撃するのに対して、私たち個人は必ずしもその世界を各個人の中に認識できていないことにあります。もし私たち個人が世界と共にあることを日々実感しながら暮らしていければ、少なくとも個人がいかなる努力を払ってもその結果が実感できなくなりつつある現代の虚無感からは解放されるでしょう。このNPO法人は必ずしもアジアの貧しい人々を援助することを主な目的としておりません。我々日本人も含めた世界の人々が個々人の連携を築く中で再び人としての誇りを取り戻すことを目的として活動します。
一言で言えば「お金」です。企業はこれからの発展を見込んで途上国に投資し、また国民の税金は政府間の交際費として時には援助という形で現在も太いパイプで結ばれています。しかしこういったお金は企業にしても政府にしても私たちはその代表者に託すという形でしか海外に渡すことができません。私たち個人が相手の顔を見ることができなかったために、いつの間にか私たち個人は海外と関係を持っているという実感がないままに今日を迎えてしまったのです。結果として世界の個人は自らがそういったお金を捻出している当時者であるにも関わらず、世界からは取り残されようとしています。しかしながら国内を旅行するよりも海外へ向かう方が料金が安くなりつつある現在この日本社会の枠組みが変わろうとしています。ようやく私たち個人自らが自由に海外と繋がれる日を迎えたのです。これがどれほど画期的なことかをお話しする前に、それに生じる諸問題と現在の私たちの社会を見てみます。
現在の世界の中の日本社会を象徴的に表していたと思える2004年の人質事件で三名の日本人が現地レジスタンス(テロリスト?)に拘束されるという事件がありました。一人はカメラマンで多分に職業として行動しておりましたが、後の二人はボランティアといった比較的自由な立場にありました。この内、ジャーナリスト志望の未成年の男性は海外旅行が未経験であったなど問題が多いのですが、もう一人の女性はイラクに友人がいてその安否が気になり、政府の渡航自粛・退避勧告を無視した形でイラクに入りました。私は決して彼らのことを詳細に調べてはおりませんが報道を見る限りこのようだったと記憶します。ここで私が注目したのは当時の日本社会の反応です。一般的な世論は救出のために多額の税金を浪費させた彼らを許されないと言い、彼らが個人的な事情を優先したことを非難します。ここで話題になったのが「自己責任」論です。これをややこしくしているのはこの責任論が時の総理大臣の発言であったことですが、注目すべきなのは日本社会の一般的価値観は、友人の安否を気遣う「個人」よりも渡航自粛を勧告した「組織」を優先すべきと考えていることです。このとき彼女に対する国内と世界の世論とに大きな食い違いを見せたのは一般的な世界は「組織」の論理より彼女の「個人」の人間的な行動を評価していたのです。これに家族という概念を加えると日本の優先順位は「(自分の属している)組織」→「個人」→「家族」であるのに対して、海外では「個人」→「家族」→「組織」が一般的だということです。さらにアジア諸国の中では優先順位は「家族」→「個人」→「組織」となるケースが多くなります。
以上のように強い個人が育ち活躍しない限り、日本の社会全体が早晩行き詰まることは確実です。さて、ここで現在年収150万円の日本人は世界の中でもやはり貧しいと言えるでしょうか。仮に日本の中でそうした状況が20年も続けば、確実にその者は子供の養育費すら支払えないのですから完全に婚期を逃して次世代に望みを託すことすらままなりません。しかしながら年収150万円あれば、アジアの中では立派な成功者です。物価が10倍違う社会の中で彼の年収は1,500万円に相当するからです。ここで重要なことは日本の中で評価されているあなたは、本来のあなたの一部でしかないという事実です。また、あなた自身もアジアの中で電気、水道、ガスもある生活がなぜ月一万円で送る事ができるのかという事実すら知らないで今日まで過ごしてきたのです。先に優先順位が異なる価値観がある社会のことをお話ししましたが、日本においてもこの優先順位は決して普遍的なものではありません。焼け野原となった大戦直後の日本は明らかに「家族」→「個人」→「組織」という時代であったし、もっと遡れば「組織」→「家族」→「個人」という時代がありました。私たちがアジアを見て日本の過去を思い浮かべることが多いのも一般的なアジアが「家族」→「個人」→「組織」という価値観を持った社会だからであると言えます。そればかりではなく既に「個人」→「家族」→「組織」と変化しているバンコクやシンガポールなどは日本の未来であるとも表現出来ます。もし、あなたが時代遅れだと他人から評価されるなら、日本の過去に行けば良いし、先走りすぎて日本では評価されないと思うなら、日本の未来へ行けば良い。大切なことはいずれの国でもあなたの評価は様々に異なっているし、あなたを受け入れる社会がアジアには必ずあるということです。同時に日本社会と比べ明らかに社会保障の少ない途上国に生きる人々が、なぜ自殺しないのかを考えてみることはあなたが強い個人に変わる手掛かりとなるでしょう。
以上のような体験は極めて個人的に起こります。またあなたがアジアの中でどのような友人を持つことができるのかというのも各個人の性格によって様々ですので私たちも具体的にプランを立てるということも難しいのが実情です。しかし大切なことはこれらの関係を築くのに旅費などの交通費を除いたら基本的には金銭を必要とはしないということです。先のアジア諸国に対して政府の援助や企業の投資などとは関係なく、人間的な関係を築くことは誰にでもできます。これからの社会においてこのことが重要な意味を持つのは私たちはやがて国を超えてアジアの市民と連帯できることを意味しているからです。どのような社会であれ、愛国教育などといった特別な教育を受けない限り、私たち市民の約8割近くは政治的には中立であると言われていますが、それはまた他のアジアにおいても全く同様です。私たち一般的な市民は毎日ご飯を食べ、洗濯をし、夜になったら寝て、お金を稼ぐために働き、子供がいたら少しでも良い学校に入れようと教育します。共通して国家による戦争や汚職などの類いは基本的には迷惑でしかないというのが一般的です。これは世界のどの社会でも共通であり、こういった市民同士のお付き合いをお金がなければできないと言う者がいたならば、それは既に現代では通用しません。同じアジアの市民同士の交流(ネットワーク)こそが、国家も既存の企業さえも超えて、より広く、容易に、そしてお金を介さずにできる新しいパイプであり、それはまた時代の必然でもあるのです。ただし、即効性を求めるならば未だにお金が有効な手段ではあるのですが・・・。
先のイラクで人質となった未成年の青年はあまりに不用心なのですが、未だにこういった旅行者は増えています。外務省の邦人被害情報を見ても被害者は観光旅行者です。つまり多くの日本人は現地を知らないで訪問しており、その中には日本国内でさえ満足に旅行した経験のない者もおります。途上国と言われながら国際化においては日本をしのぐASEAN諸国において、確かに日本国内以上に英語は通じますが英語教育が全てに普及している訳では決してありません。バスの車掌やタクシー、食堂や屋台など現地語しか話せないのは当然のことです。仮に私たちが現地の市民と交わることを大切にしているからといって、何も知らない者がいきなり彼らの社会へ入っていけるとは決して考えないで下さい。私たちが目指しているのはJICAのボランティアの派遣体制てす。多くの日本人観光者が現地で被害に遭う中で、何故JICAのボランティアたちの被害が少ないのでしょうか。もちろん現地に彼らの活動を特別警備する者はおりません。彼らは例え一人であっても現地の中で生活できているのは、彼らの生活が現地の民間人の中であることが重要で、むしろ、外国人として行動すると危険性が高まります。つまり海外の一般的な市民は外国人観光客などを生活の当てにして暮らしていないために、例え日本人であっても被害に遭わずに済んでいます。しかし、そのためには例え片言であっても現地の言葉を勉強する必要があるのです。さらに現地の危険な地域を学習し、そこには近づかないことです。私たちが皆さんに教えたいと願っていることはこうした最低限の知識に他なりません。
タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、台湾では退職者ビザ制度があり、一定の資金さえ用意できれば自由に長期間現地に滞在できます。敢えて残念に思うのは、彼らの多くが玄関を武装した警備員に守られた外国人専用のコンドミニアムに住み、現地では英語だけで生活していることです。それはともかく、彼らのような生活でも様々なストレスから帰国を考える者がいるそうです。また、最近再びアジアの花嫁などが話題になっています。晩婚となってしまった日本人が結婚できるためにビジネスとして成立しているようです。ただその日本の嫁ぎ先は当然日本語しか通じないために、様々な問題を引き起こしています。日本にとって国際的な共生が未来への鍵となることは間違いないのですが、仮に何も努力しなければ、結局、対立さえ生みかねません。ですから私たちも決して日本を脱出せよと言うつもりなど全くありません。私の経験からもある期間を過ぎた海外の滞在は、当初、あなたが目指した現地での共生を可能とし、あなた自身の新たな成長も望めますが、逆にこれまで日本の社会の中で貴方を支えて培ってきたものを衰退させてしまうことも起こります。また、この様な長期滞在者には、最終的には現地の医療の問題が横たわるでしょう。

日本の社会は世界の中でも安定しており安全だと言われています。しかし、それは不安定な要素を持つ「異物」を排除し、社会の摩擦から目を反らし遠ざけてきた社会でもあるのです。確かに日本人は海外の人と比べルールをよく守ります。しかし、同時にそういった生真面目さは現代の管理社会において大変、息苦しいものともなります。あなたがアジアに救われて、その人間性が回復できたなら、もう一度日本の社会に挑戦して欲しいとお願いいたします。これから世界が国際的な共生する社会へ向かうとき、必ず日本社会の中であなたのアジアでの経験を生かさなければならない瞬間が訪れるのですから。

さて、このように組織の価値観を重用視する日本社会の中で、現在市場の縮小とともに組織に属すことが許されなくなった数多くの個人が生まれています。未だに組織を優先する価値観を持つ社会の中でこれら個人の身に一体何が起こっているのかが問題なのです。もう世界的にも有名になってしまいましたが、先進国の中で日本人の自殺率は世界一位、世界の中でも11位で1998年に三万人を突破して以来、改善する傾向は未だにありません。年齢は60歳以上がもっとも多く、職業は無職者が最多となっています(2008年警視庁統計資料)。つまり、彼らの多くが日本社会のなかで組織との繋がりを無くした者たちと見ることができます。現在組織に勤める者においても個人の努力とは関係なくその業績は世界市場の中で大きく浮き沈みをし、市場全体は縮小し、その一方で大手企業による市場の寡占は進む中で、逆に組織からはみだした個人は日を追って増加しています。そこで社会の中で孤立してしまった個人による起業を思い浮かべますが、既存の中小企業でさえ借金をしない限り存続すら危ういことを誰もが知っており、また日本の物価指数は世界一位である状況下での設備投資と人件費などを考え、そして過去の日本国内の起業に関するデータを合わせて見る限り、その起業によるリスクはこうした個人が背負えるものではないことは明確です。さらに日本の社会には敗者である個人が再び挑戦できるステージはおろかセーフティネットすらなく、特定の個人に期待し投資する社会背景もありません。多くの日本人は組織の中でひたすら耐えることが勝者であると信じ、それは現在においてすら事実には違いありませんので、少なくとも日本社会の中で独立心を伴った強い個人が育つことは期待しにくいのです。

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